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力道山の分水嶺

今年は力道山の生誕百年にあたるという*1。

そして風雲に攫われるようにして没した年末が又巡って来た。この機会に、プロレスラー力道山の運命を左右した「一年」について、雑感を綴ってみたい。


力道山の生涯は、その突然の死に至るまで波乱の連続ではあったが、今、改めて様々な書籍や資料を元に、最も激動に満ちた「この一年」を挙げるとしたら、どの年が思い浮かぶだろうか。


世界王者ルー・テーズを招聘し、日本での初挑戦を果たした昭和32年、或いは第一回ワールド・リーグ戦を開催した昭和34年も勿論印象深い。

 一方で、当時の事情が細部に至るまで詳らかに

なった現在から振り返る形で、仮にオールド・ファンにアンケートを取ったとしたら、どうなるだろう。


おそらくではあるが、上記の二大イベントの狭間にあたる昭和33年がトップにくるのではないか、という気がする。


その前年、昭和32年暮れの時点で力道山は二つの大きな「喪失」を抱えていた。一つはプロレス興行における大きな後ろ盾であった永田貞雄、もう一つは約十年にわたって連れ添った内縁の妻、文子夫人との訣別である。


尤もこの二つの別れには、他ならぬ力道山の意向が少なからず反映されていたとみてよさそうである。特に永田貞雄は当時日本プロレス興業の社長であり、力道山にして見れば頭の上がらぬ恩人であると共に、目の上のタンコブでもあった様子が遺された様々な資料から窺える。


永田は力道山に愛想を尽かす形で袂を分かつが、その影響はプロレス興行数の極端な減少という形で如実に現れた。端的な収益減である。追い討ちをかけるように(というよりも中継する試合が組めない事が主な理由かと思われるが)それまで不定期ながらプロレス中継を続けてきた日本テレビの「ファイトメン・アワー」の打ち切り、更には外国人レスラーに対するギャラの支払いを闇ドルから調達して行った疑いで、為替管理法に抵触するのではないかと捜査が入ったり、とこの年前半の力道山、及び日本プロレスには苦難の波が次々と押し寄せた。


試合がない以上、配下のレスラー達の生活も困窮する。当時、力道山は既にサイドビジネスとしてリキ・アパートをはじめとする不動産業を中心に多額の初期・追加投資をしており、相当の資金がそちらに充当された事で、本業の日本プロレス興業の経営も圧迫した。前述の背景も重なり、この当時は所属レスラーへの給与の支払い遅延も度々発生したらしい。たまりかねたレスラー14名が"連判状"を提出し、力道山に対して待遇の改善を強硬に訴えたとも伝えられている*2。


この当時の日プロには、東富士や駿河海といった力道山にとっては先輩筋にあたるレスラーが複数所属しており、彼らを中心にレスラー達が団結、"雇用主"たる力道山を糾弾したであろうことは想像に難くない。


 難局から距離を置くようにして、この年の初夏以降、力道山はハワイに「逃避行」を試みる。

当時の事情について、秘書を務めていた吉村義雄氏の著作「君は力道山を見たか」の記述から抜粋すると、力道山と、後日ハワイに呼び寄せられた吉村氏の二人は金策に頭を悩ませた末、三菱電機社長の関 義長氏にエアメールで直訴、その結果、三菱電機→博報堂→日本テレビというルートを経て、将来のプロレス中継のスポンサー料の前払いという形で五千万円の融資を受けたとされる。(金額については諸説あり)


この融資が窮地に陥っていた日本プロレスを救う決め手となったのは勿論だが、力道山にとってより重要だったのは、一旦打ち切られた日本テレビのプロレス中継が近々復活するという担保を得たことだったかも知れない。事実その年の9月には、同局によるプロレス中継が新たなる名称「ダイヤモンド・アワー」として(当初は隔週放映ながら)復活、「金曜夜8時のプロレス」が定着する端緒にもなった。その後永きに渡り、大手テレビ局からの放映権料は、日本のプロレス団体にとって主要な収入源となっていく。


資金面で起死回生の支援を得た力道山の次の一手は実に素早かった。8月27日にはロサンゼルスの

オリンピック・オーディトリアムで、ルー・テーズを破り「インターナショナル・ヘビー級王者」として凱旋帰国を果たす。翌月5日には上述の通りプロレス(定期)中継が開始され、更に翌年には浪曲のオールスター興行にヒントを得たとされる「第一回ワールド・リーグ戦」が大ヒットを記録一時不振が伝えられたプロレス人気は完全復活を果たす。


「天国から地獄へ」という言葉があるが、こうして改めて振り返ると、昭和33年の力道山はまさに真逆の様相、前半の「地獄」ぶりに対して後半は「天国」への階段を急上昇している感がある。


エポックメーキングとなったのは三菱電機からの金銭的支援に尽きるだろうが、やはり力道山という風雲児の持つ運の強さには驚くしかない。

海外への「傷心の逃避行」が「世界のベルト」を奪取しての凱旋帰国に繋がるとは、当時の背景、事情を頭に入れて振り返ると一層ドラマチックに映る。


それにしても、この昭和33年に起こったとされる配下レスラーの造反は、四半世紀後の新日本プロレスで勃発したクーデターのイメージに直結する。メンバーは全く異なっても、歴史は一定の周期で繰り返すということか。ある意味では、猪木の中に、力道山の遺伝子が色濃く流れていた事の証明にもなろうが、敢えて両者の違いを探すと、直近のリング上の「締め方」に思いが至った。


テーズを降してインター王者となった力道山と、ホーガンに敗れ去った猪木。もしあの時、猪木が舌を出して「失神」せずにIWGPのベルトを腰に巻いていれば、数ヶ月後のクーデターは果たして起こっていただろうか?社長兼エースレスラーのオーラや神通力は、やはりリング上からのみ放射されるのかもしれない…そんな栓なきことまで考えてしまう、年の暮れである。



*1 田中敬子さんの最近の証言では(戸籍)謄本 

 に記載の生年は大正12年で、公称より一年早い


*2 The Rikidozan Years:1951-1963

 /Haruo Yamaguchi, Koji Miyamoto, Scott Teal


【その他参考資料】

・「力道山」/岡村正史

・「興行界の顔役」/猪野健治

・「力道山史 否! 1938-1963」/仲兼久忠昭

・ Gスピリッツvol.62"「火の玉小僧"吉村道明

/小泉悦次

・「力道山と大山倍達」/大下英治

・「日本プロレス70年史」


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