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力道山の師匠

のっけからプロレスではなく、相撲の話しをさせて頂く。先の九州場所中に、長くNHK相撲中継の解説を務めた北の富士勝昭氏の逝去が報じられた。


令和の世にあって、角界に昭和の残香を伝える唯一の存在と言ってよいかもしれない元横綱の訃報に、自分が生まれて育った時代がどんどん遠ざかっていく時の流れを改めて感じざるを得ない。


昭和と言えば、かつて昭和の半ばから末にかけて、三十年近くに渡ってNHKの相撲解説を務めた、玉の海梅吉という人物がいる。


現在五十代半ば以上の方なら憶えておられる方も多いだろう。基本的に辛口の解説ながら、時に人情味溢れる、味のある語り口であった。


 私は子供の時分から相撲が好きで、やがてその興味がプロレスにも広がっていくのだが、かつてよくテレビで見かけたその玉ノ海が、力士時代の力道山の師匠である事を知ったのはいつだったろうか。よく憶えていないが、それほど昔の事ではないはずである。


前回はプロレス時代の力道山のターニングポイントについて書いたが、この機会に更に遡り、土俵における力道山の育ての親について番外的に綴ってみたい。


朝鮮半島出身の力道山(金信洛)は、長崎県大村市の百田巳之吉(通称:戸籍名は巳之助)が後見人となり、百田姓を名乗らせた、と伝わっているがそもそも百田巳之吉は同郷である玉ノ海梅吉後援会幹事を務めていた人物である.百田が、角界入りを熱望する金信洛を、玉ノ海が親方を務める二所ノ関部屋に導いたのは必然的な流れであった。


力道山の初土俵は昭和十五年五月。当時の玉の海は、二所ノ関部屋親方と現役の幕内力士を兼ねるいわゆる「二枚鑑札」の立場で、部屋の「運営」と毎場所の土俵における「勝負」に多忙を極めていた。


前々年の昭和十三年の末に、やはり二枚鑑札を務めていた先代の六代目二所ノ関親方(横綱玉錦)が虫垂炎をこじらせて急逝した後を受け、26歳の若さで急遽親方を引き継ぐ事になった玉ノ海。

その重責・心労は如何ばかりだったか。


先代親方の玉錦は身長173cmと、当時としても

小兵力士であったが、普段から生傷の絶えないような猛稽古を積み、第32代横綱にまで昇りつめた猛者であった。精魂尽き果てるまで日々稽古に精進した姿から、ついたあだ名が"ボロ錦 "。


角界における当時の二所ノ関部屋は新興勢力であった。一説には吉良上野介の旧屋敷跡に建っていたとされる部屋の土俵で、連日気迫溢れるぶつかり稽古を休みなしで何番も取り続ける姿は話題を呼び、後年「二所の荒稽古」として広く知られるようになる。しかし無茶な稽古ぶりと親方兼任の無理が祟ったか、玉錦は35歳の誕生日直前に急死。


不幸な出来事ではあったが「部屋中興の祖」が遺した敢闘精神は、その後角界において(初代*1)若ノ花、大鵬、輪島、(二代目*2)若乃花、隆の里など、枝分かれした一門の部屋を含め、多くの横綱を輩出する原動力となった。同時に"孫弟子"にあたる力道山を通じ、同じスピリットは土俵からリングへと処は変わっても、脈々と受け継がれたと言ってよいだろう。


では、そんな先代親方(玉錦)に直弟子の玉ノ海が心酔していたかというと、必ずしもそうではなかったらしい。玉錦が今でいう「反社」勢力と

日常的に繋がっていた事が主な理由とされるが、弟子の玉ノ海にしてみれば、"(玉錦は)富士山と同じで、遠くから眺めている分には綺麗だが、いざ登ってみると…"というところらしい。

これは師弟関係のみならず、あらゆる人間関係についても言えることだろうが…。

(横綱土俵入りを披露する師匠玉錦の傍らで

 太刀持ちを務める玉ノ海)


玉錦の豪放磊落な性格は、直弟子の玉ノ海を通り越して、一度も会ったことのない孫弟子の力道山に隔世遺伝した感がある。典型的なアンコ型の玉錦ではあるが、破顔一笑した写真などを見ると、顔つきが驚くほど力道山に似ているのも面白い。同じ師走に急逝しているのも奇しき縁である。


ともあれ、奔放な師匠と弟子に挟まれた玉ノ海の苦労は絶えなかったろう。二所ノ関部屋を引き継いだ直後の玉ノ海は、師匠が遺した部屋と反社勢力との関係を精算することに労力の大半を費やした。もとより生半可な覚悟で片付く仕事ではない


地方巡業一つとっても、当時は部屋単位で行う事が多く、各土地の勧進元との交渉、トラブルの収拾などの雑事は枚挙にいとまがなかった。日常の業務をこなす部屋のマネジャー的存在はいたにしても、最終的に一切の責任は親方の双肩にかかってくる。


カバーの写真にもあるように、現役時代の玉の海はいかにも意志の強そうな、精悍な面構えをしている。血気盛んな若き親方は、相手が誰であれ、筋の通らないことに対しては歯に衣を着せずものを言った。土俵上は勿論、土俵の外においても相当な数の修羅場を潜ってきたであろう事は容易に想像できる。


そんな玉ノ海だが、相撲人生の中で一度だけ、「八百長」をした事があった。同郷で同い年の五ツ嶋との取組で、相手は大関昇進の懸かった大事な一番。金銭の授受や星の回し合いなどとは無縁のいわゆる「人情相撲」だったようだが、本人はそれを一生の悔恨とし、自分の弟子にも八百長に手を染める事は絶対に許さなかったという。


玉ノ海曰く、その主旨は「八百長が常態化すると反社勢力に付け入る先を与え、彼らが主催する博打や賭けの対象となりかねない」というものであった。まさに謹厳実直を絵に描いたような発言ではないか。


では、玉ノ海自身が天塩にかけて育てた愛弟子の力道山との間柄はどのようなものであったのか。これも又、単純な「師弟愛」に留まらないのが、人の世の難しいところである。


次回は戦中から戦後を通じて、二人の関係がどのような軌跡を辿ったか、見ていきたいと思う。


*1 ) 実際には、戦前に「若ノ花」を名乗り、その

後「大の海」に改名した元「花籠親方」が

初代で、後に協会理事長となる二子山勝治氏は

  二代目になる。


*2 ) 上記と同じく、「若三杉」から「二代目」

  若乃花に改名した下山勝則氏(元曲垣親方)

  は、実際には三代目である。



【参考文献】

・「評伝・玉ノ海梅吉 地位と名誉を捨てた男」

                /松永 史子

・「物語相撲部屋」/小島貞ニ

・「もう一つの昭和史〜深層海流の男 力道山」

  / 牛島 秀彦

・「力道山」/ 岡村 正史

・「力道山と大山倍達」/大下英治


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