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力道山の師匠(後篇)

「入門から敗戦時までの力道山は、とても素直でいい子で稽古熱心だった。だが敗戦後は気持ちが変わったのか、性格は一変した」


岡村正史氏の著作「力道山」の冒頭に登場する、玉ノ海の述懐である。半島から船で渡って来た

力道山を下関で出迎え、親方付けの直弟子として一から育て上げた師匠の言葉は重い。


昭和15年5月の初土俵以来、25年9月に自ら髷を切り落として廃業するまで、丸10年間にわたる力道山の土俵人生を前半、後半に分けた場合、前期の大半は太平洋戦争と被る。又戦後も、経済を始めとして国の体制が落ち着くまで少なくとも数年を要した事を思うと、力士時代後半期も、戦争の影響を色濃く引きずっていた事に改めて気づく。


その意味では、師匠の玉の海もまた、戦争に翻弄された一人と言えるだろう。先代親方玉錦の急逝を受けて部屋を受け継いで以来、短期間で弟子の数は倍増し、百名を大きく超えるのに時間はかからなかった。近衛文麿を後援会長に迎え興盛を誇った二所ノ関部屋であったが、いざ戦時となれば状況は一変する。


玉ノ海の懸念は、如何にして大勢の弟子達を戦火から護り、食い扶持を確保するかに尽きた。

辿り着いた妙案は、力士達の徴兵を避けるため、東京を離れ勤労奉仕に従事させる事であった。

いわば集団疎開と生活基盤整備の両立と言える。


兵庫県知事との知己を得ていた玉ノ海は、部屋の力士が宝塚市や尼崎市の軍需工場で働けるよう手配する。相撲協会はこの行動を異端視し、難色を示したが、何せ戦中という非常時、部屋を預かる立場上、背に腹はかえられない。


ところが現地滞在中に「事件」が起こる。力道山が米軍捕虜に暴力を振るったのだ。終戦の翌年(昭和21年)玉ノ海は角界で唯一「戦犯」容疑で拘束されているが、この暴力事件の監督責任を問われてのものだったという見方が一般的である。


時期が前後するが、東京・両国に構えていた二所ノ関部屋は、昭和20年3月の東京大空襲で焼失。

この際戦火を逃れた力士達は、高円寺にある真盛寺に仮寓を得たとされる。部屋を引き継いで以来七年近くに渡り、親方と力士の二枚監察を続けてきた玉ノ海は、同年11月に現役を引退した。最高位は関脇。「鬼の右腕」と言われた腕力は無類の強さで、全盛期には同期の双葉山を降したこともある。最も大事な時期に、力士一本に専念出来て

いれば、高い確率で大関に昇進していただろうと

周囲はその不運を惜しんだ。


一方の力道山は、引退した師匠に代わるように台頭、戦後順調に番付を上げて関脇に昇進したが、昭和24年、巡業中に口にした川蟹が原因で肺ジストマに罹患、二ヶ月の入院生活を余儀なくされる内に体重が激減、一時は力士生命も危ぶまれた。


幸い、海外から取り寄せた特効薬が効いて健康を取り戻した力道山だが、落ちた体重と番付、法外な治療費以上に、この時感じた落胆、具体的には師匠である二所ノ関親方(玉ノ海)、のみならず角界全体に対する失望の方が、より心身を蝕んだかもしれない、この時の感情的なしこりは、翌年に突然の廃業という形で爆発することになる。


事実、入院期間中、身辺の世話をする付人は一人いたものの、二所ノ関部屋からの見舞い等は一切なかったらしい。大型バイクを駆って場所入りするなど、それまでの奔放な行動に眉を顰めていた先輩、同輩力士は多かったが、後輩の芳の里によると、力道山の入院先について部屋から知らされることはなかったという。


この期間の玉ノ海は何をしていたか。おそらくは戦後の混乱期が続く中、部屋の維持と再興のための金策に東奔西走していたのだろう。後援会長だった近衛文麿は既に世になく、この時期は後援会自体が機能していなかった。


本来一本気で「ごっつぁん体質」とは縁のない玉ノ海だが、決して夢想家ではなかった。現実を見据え、部屋の経営者として採るべき道は何か、日々頭を巡らせていた筈である。


部屋再建の資金を用立てるため、自らの名義で二百数十万円の借金はしたが、返済の目処がどうしても立たないと悟った時、頭に浮かんだのは部屋の売却であった。


荒唐無稽に映るかもしれないが、当の玉ノ海にとっては現実的な選択肢であった筈である。

元々師匠の死去に伴い急遽継いだ部屋を、戦火を潜り抜けつつ十年以上支えてきた。もう十分責任は果たしたというのが本音だったのではないか。それを裏付けるように、かつての勤労奉仕の地であった尼崎に生活拠点を半ば移し、副業として洋裁教室などの経営にも着手していたという。

 

当時の玉ノ海自身が、戦争中の疎開騒動、又戦後の留置体験を通じて、角界との断絶を感じ取り、気持ちの上でも、物理的にも距離を置こうとしていた様子が上記の行動から窺える。


巡業先で力道山との衝突が起こったのは、まさにそんな時であった。昭和25年夏、地方巡業の初日に遅刻してきた力道山は、玉ノ海に対してハガミ(給与の前払い)を申し込む。もとより玉ノ海に払える額ではなかった。断られた力道山は、そのまま立ち去り、師弟は袂を分かった。弟子は髷を落とし、間もなく師匠玉ノ海自身も角界を去る。八代目二所ノ関親方として部屋を継いだのは大関だった佐賀の花だった。(後年、大横綱・大鵬を筆頭に、大関大麒麟、青葉城、天龍、金剛、麒麟児などの名力士を次々に輩出したのは、この佐賀の花が率いる二所ノ関部屋だった)


さて、玉ノ海と力道山の訣別から五年経った昭和三十年の暮れ、日活が制作した「力道山・怒涛の男」という映画が封切られた。長崎県大村出身の百田光浩少年が相撲部屋に入門、力道山の四股名を得て出世するが、同郷の親方と衝突して廃業、プロレスに転向するという、虚実ないまぜとなったストーリーである。


映画の中で力道山の師匠である「大村潟親方」は金に欲深く、弟子をモノのように扱う人間として描かれていた。かつての「プロレス・スーパースター列伝」の手法である。映画館に集った善男善女たちは、力道山の育ての親はこんな下劣な男だったのかと憤慨したことだろう。


映画の脚本制作に全く関与していなかった力道山は、当時NHKの解説を始めたばかりの玉ノ海に直接会って詫びを入れたらしい。

この時力道山は、懐から舶来のタバコを出して「親方、どうぞ」と勧めたが、玉ノ海は無言で自分のハイライトに火を点けたという。


終戦直後に戦犯容疑で留置された際にも、決して

直弟子の名前を出すことのなかった玉ノ海。その心中は察するに余りある。


この後、師弟が再び相まみえることは果たしてあったのだろうか? 調査不足で分からないが、恐らくこれが最後だったのではないかという気がする。


だとすれば、力道山にとってはまさに「煙が目にしみる」再会だったに違いない。


【参考文献】


・「評伝・玉ノ海梅吉」/松永 史子

・「物語相撲部屋」/小島貞ニ

・「もう一つの昭和史〜深層海流の男 力道山」

  /牛島 秀彦

・「力道山」/岡村 正史

・「力道山と大山倍達」/大下 英治

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