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執筆者の写真Toshiyuki Fujii

私考、ドリー・ファンク・ジュニア

更新日:10月9日

私考!“グレート・テキサン” ドリー・ファンク・ジュニア


ドリー・ファンク・ジュニア、自らのバイオグラフィー本をもって


2024年8月24日、神奈川・富士通スタジアム川崎においてテリー・ファンク一周忌追悼・大仁田厚デビュー50周年記念大会~川崎伝説2024と名打って大会が開催された。83歳のドリー・ファンクJrがなんと大仁田の領域である電流爆破マッチに参戦するというとんでもない企画が遂行された。弟子であり現在、食道ガンのステージ4で闘病中の西村修の全面的フォローを受けながら闘いのリングからドリーが生還したと聞いた時は胸をなでおろしたものだ。

今回の企画の最大のメインはあの名曲であるスピニング・トー・ホールドをバックにドリーが入場する場面だけでも見たいというのが多くの昭和ファンが熱望するシーンではなかっただろうか?残念ながら昨年8月23日に亡くなったテリーとのタッグを見ることが出来なかったが、試合後、リング上で日本のファンに「ネバー・クイット、ネバー・クイット、フォーエバー」と連呼しファンにそして弟テリーにメッセージを送るドリーの姿を見て54年前の暑い夏、テリーを帯同してNWA世界王者として2度目の来日を果たしたあの当時の初々しくも力強かった幻影をみてしまった。


1969年11月26日ファンク親子(ドリー・ファンク・シニア&ドリー・ファンク・ジュニア)は午後7時30分、東京国際空港(羽田)着の日本航空機で日本の地を初めて踏んだ。それまで日本に伝わってくる評価は、「運がよく前王者“荒法師”ジン・キニスキーを破った弱小チャンピオン」とか「父親の権力で王者になったひ弱な王者」、などその評判は決して芳しくはなかった。

ところがリングに上がったドリーを見て日本のプロレスファンはその思いを一掃されてしまったのだ。同年2月10日フロリダ州タンパのフォートフォーマーヘスタリーアーモリーで“荒法師”ジン・キニスキーを破り、27歳の若さでNWA世界王者になってから各州のトップクラスのレスラーと防衛戦を行う都度、対戦相手の技を巧みに盗み自分なりの技として引用し、多くのベテランレスラーと対戦することによりインサイドワークを学びスタミナもつけ本格派レスリングもラフにも強いオールマイティなレスラーに仕上がりつつある段階での来日であった。

外見のクールさ、今風のカッコよさも兼ね揃えたドリーに私は一目ぼれ、さらに大阪でのアントニオ猪木をチャレンジャーに向かえてのNWA世界戦を生で見て心底惚れてしまったといっても過言でなかった。

そんなドリーのファイトを今まで見続けてきたのだが正直いうと自分の好きな期間は意外とほんの短い間だった気がするし実際、記憶に残っている試合を振り返ると数試合しかないことに改めて驚く。

はっきり言うと明確に記憶にあるのは1969年の初来日(日本プロレス)から1977年暮れに開催された世界オープン選手権大会(全日本プロレス)までの8年間なのである。

その翌年(1978年)、全日本プロレスで開催された世界オープン・タッグ選手権大会においてザ・ファンクスとして出場し、そのファイナルマッチである東京・蔵前国技館で行われた伝説の試合、対極悪タッグチーム“黒い呪術師”アブドーラ・ザ・ブッチャー&“アラビアの怪人”ザ・シーク戦においては会場に詰め掛けたプロレスファンはもちろんクリスマスイブの夜テレビを見た全国のプロレスファンをプロレスの醍醐味である男の闘いの原点、そしてザ・ファンクスの兄弟愛の虜にしてしまったのである。

この試合をテレビで偶然見てプロレスファンになったという話もよく耳にしてきた。

爆発的人気を獲得したザ・ファンクスと”極悪タッグ”ブッチャー&シークのカードは全日本プロレスの揺ぎ無きドル箱的カードとなり各地で多くの観衆を熱狂させテレビの視聴率もうなぎ上りとなりライバル会社である新日本プロレスに追いつけ追い越せという勢いが加速していた。そんな中、私は一抹の悲しさを抱え始めていたのが正直な気持ち。静寂なリング上で相手を翻弄しプロのレスリングを見せてくれるドリーのファイトが好きな私にとって、感情むき出しのファイトで敵に向かうテリー、それを見守るドリーの絵柄を見初めてから急に冷めてきた感があった。ドリーがザ・ファンクスの兄としてテリーの暴走を止め自らの個性を押し殺しラフファイトに付き合うドリーの姿に冷めてきたのだ

いわばドリーファンとしてテリーのリング上のファイトに対してジエラシーすら感じるようになっていたのかもしれない。そう、決してテリーの喧嘩スタイルのファイトが嫌いというのではない。色んなスタイルがあってプロレスは成りたっているものだ。ただ自分がオールドファッションスタイルの古典的な技の応酬のスタイルが好きだということである。まして、実際テリーに会いテリーと向き合うとそのフレンドシップな人柄、素晴らしい人間性のとりこになってしまうほど最高のレスラーでありすばらしい人格者であった。

そしてずっと、ドリーとアントニオ猪木との3度目の決着戦を夢みてきた自分において、ある時代から今のドリーのコンデション、体力を鑑みるともう猪木との名勝負は再現できないと思いながらも猪木さんに会う都度、二人の対戦を訴えてはいたが、いつ頃だったかな・・猪木さんから直接、今のドリーとは戦う意味が無いと言われフッと我に帰ったことが思い出される。では自分にとってドリーの磨かれたレスリングをどの時代、どの試合まで自ら胸をときめきしながら見ていたか時系列に振り返ってみようと思う

昭和44年(1969年)NWAシリーズ、父シニアと初来日を果たす(日本プロレス)

・当時の日本プロレスの写真を見るとリングサイドには背広姿の観衆が目立つ


写真などでその雄姿はみていたが、テレビで初めて見たドリーのファイトぶりに子供心に自分の憧れのヒーロに遭遇した嬉しさを実感、スマートでクールな王者ぶりが印象深い。

大阪でのNWA世界戦を見に行き、後々アントニオ猪木さん自らもベストバウトと称する試合が始めての生観戦に当たったという運命的出会いに感謝しかない。

未だにこの試合は自分の心のよりどころである。後日、この試合を実況なされた舟橋氏が「初対決の超一流の二人のアスリートが阿吽の呼吸で技を繋ぎ、紡ぎ合ったプロレス60分フルタイムの最高芸術」「レスリングの技と闘いの魂の波長がかみ合った“若き両雄の最高傑作”と評された言葉に感動と共感を覚える。

初戦の11月28日インター・タッグ戦(BI砲対ドリー&ダニー・ホッジ)蔵前国技館、NWA世界戦(12月2日、対猪木 大阪府立体育会館、12月3日、対ジャイアント馬場戦 東京都体育館)注目カードが目白押しであった。11月29日、静岡駿府会館で行われたドリー・親子とハーリー・レイス組が猪木、吉村、ヒロ・マツダと対戦したカードは今となっては貴重すぎる夢のカードである。いずれもプロレスが最も輝いていていた時代のNWA世界王者としてその実力を満天下の日本のプロレスファンに示したすばらしい試合ばかりであった。早く王者として再来日を待望したものだ。

・日本プロレス史上に燦然と残る名勝負となったNWA戦(ドリー・ファンクJr対アントニオ猪木)昭和44年12月2日:大阪府立体育会館 


昭和45年(1970年)NWAワールド・チャンピオン・シリーズ

実弟テリーを帯同して2回目の来日を果たす(日本プロレス)


NWA王者になり1年半、各テリトリーの強豪の挑戦を退けてきたドリーには風格さえ漂う。弟テリーは金髪に童顔で未来のスターを予期させる。この年の4月からEXPO70が大阪で始まった。各シリーズに来日するレスラーが昼間から見学にゆくも、7月30日大阪でジャイアント馬場の持つインターナショナル選手権に初挑戦のドリーは中の島あたりを散策後、夜の大勝負に向け睡眠をとる。NWA王者としてのプライドと責任感を感じる行動である。大阪での試合は暑さと観客の熱気とテレビライトの熱さが重なりリングは蒸し風呂状態。55分を闘い馬場は控室前の風呂場で倒れ込みダウン。未だに闘いのリング上で「お母さん助けてー」といった話は有名。半面ドリーのスタミナには驚かせた。3日後の福岡では再びアントニオ猪木の挑戦を受け、お互い1本ずつを取り合い引き分け。今後まさに日米の永遠のライバルになりえると思われた。先般の来日でもドリーは大阪・福岡の猪木とのNWA世界戦が日本での最高の思い出試合と語る。そしてファンク兄弟として8月4日、東京体育館でBI砲(ジャイアント馬場&アントニオ猪木)のインター・タッグ戦に初挑戦するも2-0で完敗。まだまだ未熟なテリーでは荷が重すぎたかもしれない。この頃はオープン・タッグ戦以降ドリーがテリーの暴走を止めようとフォローしていた様子とは違い、ドリーがテリーを操縦しながらフォローしていた印象が強い。テリーも兄貴との初来日が良き経験となり、その後の日本での大成功に繋がって行ったと思われる。





・大阪の街を散策するファンク兄弟    ・灼熱の福岡でのNWA戦 対アントニオ猪木



昭和46年(1971年)ワールド・チャンピオン・シリーズ

NWA世界王者としてドリー最後の来日(日本プロレス)


このシリーズの最大のクライマックスは12月9日大阪府立体育館で予定されているアントニオ猪木とのダブルタイトル(NWA世界王者ドリー、UN王者アントニオ猪木)を賭けての大一番であった。しかし突然アントニオ猪木のクーデター事件が発覚して急遽、坂口征二がピンチヒッターとしてドリーのNWAに挑戦することになる。名勝負が少ない坂口においてもこの試合は大阪の観客が坂口を後押し、大声援の中ドリーに大善戦した試合として語られている。

当時のNWAは最高峰と称され、NWAタイトル戦のかかった試合は日米どこの大会場も超満員の観客で溢れ、その王座の権威が世界的に認められていた証拠でもあった。

猪木との3度目の決着戦が流れたことで私はこの二人の動向に人生をかけて追いかける決心をした。若い自分に色んな興味深い他分野の素晴らしい事が面前に現れても常に二人のリングでの動向、発言を雑誌やテレビを通じてアンテナだけは張ってきたつもりである。

このシリーズにおいて特筆すべきは12月7日、札幌中島スポーツセンターにおいて、ファンク兄弟は日本が誇るBI砲(ジャイアント馬場&アントニオ猪木)を破り、見事2回目の挑戦でインター・ナショナルタッグ王座を奪取して海外へと持ち帰るとういう快挙を成す。ただ上記で記載したように猪木クーデター事件に揺れる中、馬場と猪木のタッグコンビネーションはこの日全くかみ合っていなかったのは事実である。



・羽田空港で奪取したインター・ナショナルタッグベルトを披露するファンク兄弟


昭和48年7月サマー・アクション。シリーズ(全日本プロレス)


 1年半もドリーが来日しなかった中、日本のプロレス界もドリーの環境も大きく変化していた。この年の5月24日夜、カンサス州カンサス・シティのメモリルホールでドリーは4年3カ月保持してきたNWA世界王者をハーリー・レイスに明け渡してしまう。追い打ちをかけるように父であるドリー・ファンク・シニアが心臓麻痺により突然死。

傷心のまま初めて全日本プロレスのマットに登場。というのもアントニオ猪木はクーデター事件により日本プロレスから追放され、昭和47年3月6日に新日本プロレスを旗揚げ、同年ジャイアント馬場も日本プロレスより独立し10月21日に東京は町田市体育館にて全日本プロレスを旗揚げし4団体(日本プロレス、国際プロレス,新日本プロレス、全日本プロレス)がひしめく戦国時代に突入していたのだ。父シニアがジャイアント馬場率いる全日本プロレスをバックアップしていたゆえドリーはその後を引き継いでの来日、今後の協力体制を固める上の政治的な重要な来日ゆえ、リングでのファイトは4試合のみと少なく、唯一馬場との久々のノンタイトルシングル戦が唯一目立った試合ではあるが、リング上での活躍は二の次感が残るシリーズ参戦であった。

遂にドリーが全日本プロレスのブッカーとしてリングに立ったことは、今後アントニオ猪木との対戦がさらに遠のいたことの現実を噛みしめていた自分がいた。




・全日本プロレス初登場の記念パンフレットと参戦選手の顔ぶれ


昭和48年9月ワールド・チャンピオン・シリーズ(全日本プロレス)


前回の来日から2ヵ月という短いサイクルで再びドリーの来日が決まる。

NWA王座から転落してか、のびのびと試合をやっているように見えた。全日本プロレスの豪華外人選手登場のシリーズの走りか、元NWA王者ドリー、前NWA王座ハーリー・レイス、元NWA王座パット・オコーナー、ボボ・ブラジルを次々に参戦させる馬場のNWAの会員として信用を背に振る舞う手腕には驚く。このシリーズでは遂にジャイアント馬場のPWFに初挑戦、試合途中レイスが突如乱入し場外でドリーにパイル・ドライバーを仕掛けリングアウトにするというはっきりしない決着。ドリーの相手がジャイアント馬場ではレスリングのスタイルが違いなかなか名勝負を残すのはむずかしいがNWAの主力選手が互いに牽制試合戦う図式にまだまだ魅力を感じえた時代。相変わらずドリーの体から発するオーラはNWA王者時代と同様にすばらしく、そして体調すこぶる良さそうであった。




・豪華な顔ぶれが表紙を飾るワールド・チャンピオンシリーズのパンフレット


昭和48年10月創立1周年記念ジャイアントシリーズ(全日本プロレス)


早くも同年3回目の短期来日を果たす。まだまだ色褪せないドリーのファイトぶりは魅力一杯の時代である。今回は華々しく10月9日蔵前国技館において全日本プロレス1周年記念興行参戦の為、弟テリーとのファンク兄弟としてインター・タッグ王座を引っ提げての来日。全日本プロレスの未来を背負うジャンボ鶴田を相棒に指名したジャイアント馬場組の挑戦を受けた。

この時はまだテリーはあくまでタッグのリーダーであるドリーの弟という存在で、まだまだドリーの引き立て役的存在。ドリーとテリーは弟子として短期ではあるがコーチした鶴田と互いに技をかけあいながらまるで練習試合でもやっているかの如く嬉しそうにファイトしていたように見受けた。

試合は時間切れ引き分けとなりファンク兄弟が防衛し再び海外へ持ち帰ることになる。





                   ・リング上で沖識名引退セレモニー、アントン・ヘーシングのプロレス入りが紹介された


昭和49年新春NWAチャンピオンシリーズ(全日本プロレス)


なんと新春からNWA現王座ジャック・ブリスコ、前王者ハーリー・レイス、元王者ドリー・ファンク・ジュニアを同時期に呼ぶという快挙をジャイアント馬場が敢行。

各地ですばらしい組み合わせが実現しNWAここにありを満天下のプロレスファン、そしてライバルである新日本プロレスにみせつけたNWA黄金時代の象徴的シリーズである。

如何なくその実力をみせつけるドリー、このシリーズテレビ中継された和歌山のドリー&ブリスコ対馬場&鶴田戦はNWAが誇る最強コンビでありライバルの二人が日本チームを手玉にとり試合を優勢に進めるその強さに圧倒された。このシリーズにおけるドリーのシングル戦、対馬場、鶴田、レイスも素晴らしかったが何といっても大阪・東淀川体育館(1月27日)で行なわれたNWA王者ジャック・ブリスコにドリーが挑戦した試合は本場セントルイス・キールオーデトリアムからそのまま輸入した試合を体感でき感動したものだ。当時はまだ日本の観客は静かにプロレスをみる習性がある時代でもあり息を殺しながら二人の大技が出る度、大きな拍手を送っていた印象が強い。

まだまだ外人同士の試合が受け入れられるには少し早い時代ではあったが、ファンを酔わせた二人の試合は惜しくも時間切れ引き分けというエンディングにもかかわらず試合後は大きな歓声と拍手が起こった。特にブリスコのあざやかな巻き投げが決まると二人同時に宙を舞う技には驚嘆の声すら聞こえてきた。猪木戦以来、ドリーの本格的業師同士の試合も見ることができ、満足して帰路に向かった思い出が蘇る。




・豪華なNWA3強を紹介するパンフレット、当時のファンは新春から驚きを隠せなかった。


このシリーズの前半はジャック・ブリスコの弟ジエリー・ブリスコとドリーの弟テリーが参戦していたが大きな印象も無くシリーズは進んでいた印象がある。テリーはタッグマッチでメインを行う事が多かったがまだジャイアント馬場やザ・デストロイヤーにあっさりフォールやギブアップを奪われている時代であった。この3年後、日本中を巻き込むような大ブレークするなどとは夢にも思っていなかった。

当時はドリー、ブリスコ、レイスがNWABIG3で、昭和50年テリーがブリスコを破ってからBIG4としてNWAの象徴的4人となる。こんな中ジャイアント馬場がマスコミ向けに発言する都度、その実力の評価は常にドリー・ファンク・ジュニアが1番であった。




  両者のリング上で漂うオーラと品格は当時のNWAの輝きを映し出していた









・シリーズ最大のクライマックスと言っても過言では無いブリスコとドリーNWA世界戦


昭和49年第二次サマー・アクション・シリーズ(全日本プロレス)


散弾!前半テリー、後半ドリーが参戦という雑誌のキャッチフレーズを思い出してしまう。

何とテリーが前半戦の蔵前国技館にて馬場のPWFに挑戦が決まる。善戦したが2-1で完敗。しかし徐々に実績をつけレベルアップしてきたテリーのファイトに注目した。

いつもドリーとのタッグでのポリスマン的イメージ、さらには日本人とのオーソドックスな試合をこなすテリーにとって、地元アマリロではヒールとの対決や他地区に遠征してヒールに変貌する熱きプロレスを展開するファイトが日本では封印されておりこれが点火することによりテリーの個性が爆発することになろうとはまだこの時点でも思えなかった。テリー本人も日本でのファイトに幾何かのストレスを抱えていたこもしれない。

かたや通算8度目の来日のドリーは愛弟子ジャンボ鶴田とのシング戦を後楽園ホールで実現。鶴田にとってはシングル戦として初めてにメイン抜擢、互いに知り尽くす技で対抗したが最後は貫禄でドリーが勝利した。この試合は鶴田の名勝負として未だに記憶に残る。

スープレックスを返し返される攻防は見応えがあった。この頃から雑誌でのアンケートなどにおいて外人部門、世界最強部門においてドリーの名前がトップに出てくる事が多くなってきた。日本レスラー部門では日本人大物選手と対戦し勝利してゆくアントニオ猪木がトップとなっていた時代である。


・ロープ最上段からニードロップを振り落とす時、ドリーの後ろ髪がなびく姿が好きだった


昭和50年3月 エキサイトシリーズ(全日本プロレス)全日本プロレス


この年の2月にテキサス州サンアントニオ・ミュンシバル・オーデトリアムデインター・タッグ王座を馬場&鶴田組に奪われ、奪還するためファンク兄弟が来日。タッグ中心のシリーズとなる。

3月8日札幌中島スポーツセンターでの初戦は引き分け、満を持して臨んだシリーズ最終戦の3月13日、日大講堂では1-2と破れ去る。屈辱的来日ではあった。

どうもジャイアント馬場&ジャンボ鶴田とファンク兄弟の闘いは身内で争っているという感じが強くありファンにとって試合に対するワクワク感がない。また、全日本プロレスというマット上でここ一番という時のメインイベントのカードとなりマンネリ感が強くなってきた時期でもあった。あの初来日当時のドリー、テリーの新鮮味も若干、薄らいできた時代であった。



・インタータッグ戦の前、NWA世界戦ジャック・ブリスコ対ボボ・ブラジル戦が行われた


昭和51年世界オープン選手権大会(全日本プロレス)


確か私が高校3年生の秋ごろだった。9月26日、銀座東急ホテルの記者会見で全日本プロレスのジャイアント馬場代表より「全日本プロレス・オープン選手権大会」の開催趣旨書がよみあげられた。アントニオ猪木の執ような挑戦問題に答えをだしたのだ。そう門戸を開放しての最強を決めるイベントなのだ。当初は猪木も賛同したがテレビ問題や主催が全日本プロレスという名目他の問題で早々10月13日に不参加を発表。残念感があったが、次々参加選手が明らかになる中、ドリー・ファンク・ジュニアの参加が当然のように決まる。

このシリーズのドリーはいつもより体重を増やし、すこぶる体調が良いように見えた。

初戦のアブドーラ・ザ・ブッチャー戦では日本で初めてテキサス・ブロンコの本領を発揮しラフファイトで対抗する凄まじい闘いをみせつける。ハーリー・レイス戦ではNWAの名物試合を日本で再現すかのごとく前半は寝技でスタミナを奪い合い、後半からは大技の応酬からレイスのポスト上段からのダイビング・ヘッド・バッドをドリーが投げ飛ばし投げ、大技で追い込んでいったが時間切れというスリリングな試合展開に終始、バロン・フォン・ラシク戦ではブレーン・クローとスピニング・トーホールドの応酬からテキサス・ブロンコスープレックスで完勝、そして日本のエースであるジャイアント馬場からエビ固めで完全フォール、国際プロレスのエース、ラッシャー木村からは一瞬の返し技で勝利、ドン・レオ・ジョナサン戦では巨体を少し持て余したようであったがドリーのキー・ロックが決まったところジョナサンが抱え上げそのまま場外ドローとなる。どんなタイプのレスラーに対しても対応しえるドリーのオール・マイテイなレスリングセンスはあの4年3か月NWA王座を各地のエースレスラーと対戦してきた賜物であろう。

このシリーズ特筆すべき一戦が12月15日、仙台・宮城県スポーツセンターで行われたヨーロッパ技巧派のホースト・ホフマンとの一戦。まさにプロレスの教科書を紐解いているかのような技の攻防。ホフマンが終始弓矢固めやサイドスープレックスで攻めて、最後はホフマンがドリーをフルネルソンで絞りあげたところ、ドリーがスルリとホフマンを前方に投げ飛ばし、ダブル・アーム・バーを決め、もがくホフマンの両足をからめて変形のエビ固めで辛くも勝利。思わずテレビの前で唸ってしまうほどの名勝負であった。

先ほども述べたがこのシリーズのドリーのコンデションも気持ちも最高の状態であり、同日、蔵前国技館においてビル・ロビンソンと白熱の60分ドロー、究極の名勝負を展開したアントニオ猪木との決着戦が実現していたら最高の名勝負に成りえていたと今でも悔やまれてならないものだ。

さらにはビル・ロビンソンを加えた日米英の3人での実力世界一決対戦など夢の妄想が広がりえる最後のチャンスの時期だったかもしれない。なぜなら3人ともレスラーとして絶頂期を迎え、コンデションが最高の最後の時だったように思える。

そしてこのシリーズ中の特別興行として12月11日、力道山13回忌追善興行が日本武道館で行われていた夜、ドリーのもとに短い電報が届き会場内で発表された内容は“12月10日、マイアミ・ビーチで行われたNWA世界選手権試合で、チャレンジャーのテリー・ファンクが王者ジャック・ブリスコを破り第51代NWA世界王者になった”とういう朗報であった。

初の兄弟チャンピオンが実現したのだ。このフロリダでのNWA世界王者に挑戦というチャンスを最優先したテリーにとって最高の選択だったかもしれないが、逆に日本でこのシリーズに参戦していたならいち早くブッチャーとの一騎打ち他でクレージーファイトを初披露していたなら、日本でテリーブームが1年早く訪れて巻き起こっていたかもしれない。




・全日本プロレス代表ジャイアント馬場が企画、実行した最高のシリーズであっただろう


あとがき

そして翌年(昭和52年)のオープン・タッグ選手権大会の開幕戦12月2日(後楽園ホール)に実況生中継されたテレビの画面から流れてきた、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田 対 “極悪タッグ”アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク戦のピンチに通路から飛び出してきたテリーを極悪コンビが凶器で血の海に沈めたところからテリーブームが点火、各地で血の抗争を行いながら最終戦の12月15日蔵前国技館でのザ・ファンクスの兄弟愛と不屈の連携にて極悪コンビから反則勝ちで勝利しザ・ファンクスのいやテリー・ファンクの確固たる人気が定着したのを目にした。今思えばあの開幕戦においてジャイアント馬場&ジャンボ鶴田組を助けようと飛び込んできたテリーの姿に夏のプールや海を目にした子供たちが気持ちを押せることが出来ないまま、喜び勇んで飛び込む心境に似ていたと思う。今この瞬間こそ兄貴にも気使うことなく自分の意志でその闘いに参戦し、血だるまになりながらも最高の快感を体全体で感じとっていたと思う。そして、その時点からドリーのオーソドックスな技の応酬の試合は影を潜めてゆき、ドリー没個性の時代に突入していったのである。

逆にこの試合をみてザ・ファンクスのファンになった世代が羨ましい。テリーの熱いファイト、それを見守り助ける兄ドリーの図式になり大声で二人を応援できる時代に突入したのだ。

日本のプロレスを観戦する図式が変わり、ファン層も変化していったのである。

日本プロレスからファンク兄弟をみてきた我々世代はNWA世界王者として近代的なレスリングの中にもオーソドックスな技を展開していたドリー幻想が薄まってき、その時代に戻るよう心の中で祈りつつもザ・ファンクスの活躍動を気にしながらテレビや雑誌を見続けていたものだ。

そんな中でも、オープン・タッグ戦中に特別シングル戦として行われた12月7日、福井市体育館で行われたビル・ロビンソン戦、12月9日、新潟市体育館で行われた2年ぶりの対決ホースト・ホフマン戦、翌年開催された78年世界最強タッグ戦シリーズにおいて12月4日、大分県体育館で行われたニック・ボックウインクルとのシングル戦にかろうじてドリーの光明をみつけていた。今ならその試合だけ目当てで地方に密航していたことだろう。

残念ながら世界オープン・タッグ戦シリーズの感動とともにドリーのレスリングスタイルである古典的でオーソドックスなファイトは最後になってしまったのは明らかである。

振り返れば、やはりドリーがNWA王者として日本プロレスに参戦し光輝くNWAチャンピオンベルトを腰に巻き、母が作ってくれたヒラヒラの狩猟服をきて颯爽とリングに上がり日本のエースであるジャイアント馬場。アントニオ猪木、坂口征二と対戦していた時期が最高にクールで新鮮でカッコよかった。

あの頃に戻りたい・・・・



・アントニオ猪木との闘い後、控室で腕立て伏せを行うドリー。(昭和44年12月2日)

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