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◆ ビリー・ライレー

イギリスにおけるキャッチ・アズ・キャッチ・キャン最盛期の1896年に、ランカシャー地方ウィガンでライレーは誕生しました。当初は仕事をしながら、地元の炭鉱夫と賞金を賭けて戦っていました。連勝を重ねて試合で稼げるようになると、仕事を辞めてレスリングに専念し、10代でプロデビューを果たしました。

その非凡なる才能はすぐに開花し、若くして次々とチャンスを与えられ、イングランド・バンタム級王者にもなりました。
アメリカ遠征の際には世界ミドル級王者、南アフリカで大英帝国ミドル級王者にも輝きました。

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◆ “蛇の穴”ビリー・ライレー・ジム

現役引退後の1950年頃、のちに伝説となるジムを地元ウィガンに建てました。ライレーの指導の元、ビリー・ジョイス、トミー・ムーア、ライレーの息子のアーニーら、トップクラスのレスラーが激しい練習でしのぎを削り合っていました。いつしかジムは、“Snake Pit(蛇の穴)”と呼ばれるようになり、強豪レスラーの養成所として広く知られるようになりました。

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◆ “蛇の穴”の選手

日本でも有名なライレーの弟子は、“プロレスの神様”と呼ばれたカール・ゴッチです。1968年から長期に渡り、日本プロレス内で開校された「ゴッチ教室」で、アントニオ猪木ら当時の若手選手にビリー・ライレー仕込みの技術を伝えました。その後も、藤原喜明、シューティング(現:修斗)創始者の佐山聡(初代タイガーマスク)、前田日明、高田延彦、船木誠勝、鈴木みのるなど、現在の総合格闘技の礎を築いてきた多くのプロレスラーを指導しました。ゴッチは日本滞在時にはすでに全盛期を過ぎており、選手としてではなく、名コーチとしてその名を馳せました。

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一方、ライレー直伝の技術を日本のリング上で披露したのが、1968年に初来日した“人間風車”ビル・ロビンソンです。アメリカンスタイルが主流だった当時の日本マットで、誰も見たことのないロビンソンの華麗なるレスリングテクニックは、全国のプロレスファンを魅了しました。とりわけ、1975年のアントニオ猪木との一戦は、日本のプロレス史上最高の名勝負とされています。また、ゴッチ同様、ロビンソンも国際プロレスで「ロビンソン教室」を開き、若手のプロレスラーを指導しました。

ビリー・ライレーの弟子であるゴッチ、ロビンソンの活躍により、昭和40―50年代に、「蛇の穴ビリー・ライレー・ジム」、「ランカシャー・レスリング」の名が日本でも知られるようになりました。ロビンソンは、現役引退後に、高田延彦、田村潔司、桜庭和志らが所属するUWFインターナショナルでコーチを務めた後、1999年から日本に定住し、宮戸優光主催のUWFスネークピット・ジャパン(現:CACCスネークピット・ジャパン)で長年に渡り指導しました。

◆ライレー最後の弟子

しかし、1960年代からイギリス国内でのキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの人気は低迷の一途を辿り、世界レベルの選手はアメリカや日本など海外に活躍の場を移します。ビリー・ライレー・ジムは1970年代には一時閉鎖されましたが、近所の子供達のためのレスリングジムとしてすぐに活動を再開しました。ビリー・ライレーは、弟子のロイ・ウッドにコーチの座を譲り、自身は後方から練習を見守りました。ウッドに指導法を伝授することを最後の務めとし、1977年にライレーはこの世を去りました。

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その後も、“ビリー・ライレー最後の弟子” ロイ・ウッドが、ライレーの遺志を受け継ぎ、子供を中心に指導を続けました。ウッドは、数々のフリースタイル・レスリングの全英チャンピオンを輩出し、伝統の技術を守り続けています。ウッドもまた、「ゴッチ教室」、「ロビンソン教室」のように1990年に新興プロレス団体SWSにコーチとして来日し、若手選手を指導しました。また、1996年には藤波辰爾の主催興行、「無我」にもコーチ役として度々参加しました。

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◆新生“蛇の穴”

21世紀に入り、世界的に総合格闘技が流行すると、ランカシャー伝統の技術が、再び脚光を浴び始めました。2012年に “蛇の穴”の復興を目指し、聖地ウィガンでおよそ50年ぶりとなる、伝統ルールでのキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの大会が開催されました。その輪は広がりを続けており、大会規模は年々拡大しています。

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​歴史 2 「蛇の穴」

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